峰相地区めぐり

峰相地区の自然豊かな景色、名所・旧跡、行事など、とっておきの一枚(写真画像)を募集しています!

打越木もれ日の森うちこしこもれびのもり

兵庫県が「ひょうご豊かな森作りプラン」に基づいて、平成8年(1996)3月、打越が所有する林野を整備した。散策路は北コースと南コースがある。

打越木もれ日の森

峰相山と鶏足寺みねあいさんとけいそくじ

打越・石倉・下伊勢・上伊勢にまたがる標高239.7m の山で、尾根伝いに近畿自然歩道が書写山・峰相山を経て林田方面へと通じている。
鶏足寺は、新羅の王子の創建といわれ、奈良時代に隆盛を極め、鎌倉時代末期に衰微した。

鶏足寺跡

大谷古窯跡おおたにこようせき

大阪四天王寺が戦災で消滅し再建の際、創建当時の跡を発掘調査したところ、鋸歯文縁複弁六葉蓮華文で飾られた鴟尾片が出土した。これと同種の鴟尾片が、すでに打越大谷窯跡付近から発見されている。

鴟尾片

白鳥台今昔はくちょうだいこんじゃく

戦後まもなく、営農研究所が設置され、牧場には数百頭の乳牛が草を食み、池の辺りに山荘があった。昭和45年(1970)農場を閉鎖し、宅地開発が進められ、小学校区が白鳥であったので、白鳥タウンと称した。ウィキペディア

白鳥台今昔

飛渡とびと

刀出橋の少し上流で、菅生川を渡った場所を今も飛渡といっている。
昭和51年(1976)の台風17 号の洪水で土砂に埋もれていた平らな石3 個が現れた。
花山法皇性空上人を訪ねて渡られた御幸道の飛渡石であると伝わる。

飛渡

固寧倉(刀出)こねいそう(かたなで)

姫路城主酒井忠道が飢饉や災害に備えて米や麦を蓄えた倉として設置。固寧とは書経の「民ハ惟レ邦ノ本、本固ケレバ邦寧シ」による。扁額の揮毫は、藩主が幕府の儒者林述斉に依頼し、その子檉宇が書き欅の板に彫刻したもの。

固寧倉(刀出)

六川ろくがわ

江戸時代中期、宝暦年間(1753 ~ 1761)刀出村と打越村とで刀出下代井堰からの取水をめぐり、打越村は大阪奉行所に提訴、宝暦11年(1761)打越村の敗訴に終わる。打越村主張の権利割合の六分が六川の名称で残る。

六川

大塚三郎右衛門の碑おおつかさぶろうえもんのひ

岩崎山の東端に大塚氏の墓があって、傍らに三郎右衛門の功績を讃えた石碑がある。
碑文には、特に弓芸に優れた三郎右衛門は深く浄土真宗に帰依し、本願寺の顕如上人を最も尊崇していたとある。

大塚三郎右衛門の碑

権頭六角公紀恩碑ごんのかみろっかくこうきおんひ

この碑は、明治33年(1900)、六角公の450 回忌を記念して子孫の本城氏が建立した。碑には、始祖は赤松氏で、山名氏との戦いに破れ書写山に遁れていたが、やがて山を下り、荒地を拓いたとある。

権頭六角公紀恩碑

清水公照 師しみずこうしょう し

清水公照は、華厳宗の僧侶。明治44年(1911)、兵庫県飾磨郡曽左村六角(現在の姫路市六角)の東道家の六男に生まれたことから「睦治(むつじ)」と名づけられた。第207世、第208世東大寺別当、華厳宗管長となり、大仏殿昭和大修理を行った。昭和56年(1981)東大寺宝厳院長老となり游叟(ゆうそう)と自称する。
独特の味わいのある書画、陶芸で知られる。昭和38年(1963)頃から「泥仏」と称するユニークな小さな仏像を制作した。泥仏庵と号す。また、「今良寛」の異名がある。

清水公照師